2011年12月5日月曜日

仮設屋台

11/26(土)
横丁好きとしてはたまらない場所が気仙沼港近くにオープンした。気仙沼横丁仮設屋台村。こういう魅力的な場所がもう一カ所出来るらしい。車じゃなければぜひ横丁で千鳥足になりたいものだ。

2011年12月1日木曜日

ソフトボール大会

2011/11/27
汗ばむほどの晴れた日曜日に、気仙沼の小中学校生女子チーム、気仙沼を楽しくする会(気楽会)、楽天イーグルスファンのチーム、そして気仙沼で活動しているボランティアの連合チームの4チームが集まりソフトボール大会が行われた。気仙沼出身のゆるキャラ「ホヤぼーや」もバッターボックスに立ち周りを盛り上げていた。
 終了後は 名物気仙沼ホルモンや豚汁が振る舞われて、多くの人と交流が出来た。

気仙沼に流れるジャズ

 気仙沼港の近くにあるジャズ喫茶ヴァンガード。震災時2階まで水に浸かってしまったが、今は通常通り営業をしている。通常とは言っても使っている音響設備はラジカセだったりと元どおりではない。
 以前を知らないけど、マスターが丁寧に入れてくれるコーヒーは変わらない味だと思う。おいしく、そして安い。壁に掛かっているメニュー表も水につかってしまったようだが、オープン時から使っているので、あじがあり食事の値段もそのままなのでうれしい。
 店においてあるピアノはジャズピアニストの板橋文夫さんが寄付してくれたモノらしく、僕はちょうど数日前に仙台で板橋さんのライブを見たばかりだったので、マスターとの話しが盛り上がった。
 「また津波が来たら逃げればいいよ。ここでやるしかないからね。」ジャズ一本で生きてきたマスターが笑いながら言った。

船出

2011/11/01
気仙沼で関わっている「ワークショップひまわり」で作られたパンが船に積み込まれた。震災前は遠洋漁業に出る大型船用に大量のパンを作っていたが、港が被災し大型船が入って来られなくなったためパンの注文が減ってしまった。
 この日は大型船からではないけれど久しぶりにパンの注文があり、利用者のみんなと積み込みに行った。40日間の漁にでる船にはがたいの大きい海の男達が乗り込んでいたが、みんな「漁に出られるのがうれしくてしょうがないよー」という 柔らかい表情をしていた。
 港にはひっきりなしに車がやってきて、差し入れを船にどんどん積み込んでいた。町の人達も船出をお祝いしていた。
 出航前に日本酒で乾杯をし「ボーーーーーーッ」と汽笛を鳴らし、これまた船もうれしそうに港から離れていった。
 あれから40日ぐらい経っているから、そろそろあの船は気仙沼に帰港するだろう。 

2011年10月24日月曜日

送迎支援

2011/10/12火曜日
「いっしょに歩こう!プロジェクト」が関わっている就労移行事業所『ひまわり』に週3日ほど行っている。仮設に入居している利用者が多く、本人や家族のちょっとした「足」にしてもらおうと送迎の手伝いをしている。

この日は利用者のTちゃんとそのお母さんといっしょに市役所に保険証を取りに行った。
お母さんは脳の手術を受けていて、杖が無いと立てず料理をするのも困難で、出かける時にはタクシーしかない。ちょっとした用事のためにいちいちタクシーを使っていたら大変な出費である。
 入居している仮設は町から遠いし、まわりにお店はない。車がある人はまあ何とか生活できるだろうけど、なければ歩くのが好きな人でもイヤになりそうなところだ。


 気仙沼市役所は黒澤映画「生きる」に出てくるような雰囲気だった。
震災の影響というより元々そういう市役所だそうだ。

 保険証を受け取るには印鑑と身分証明書が必要で、売店に売っているはずの印鑑は売り切れ、身分証明書もお母さんが持っているものではダメらしく、次に来る時持ってくるので何とかならないかと頼んでみたもののやっぱり受けつけてくれなかった。
 結局お母さんにはそこで待ってもらうことにしてTちゃんと僕は仮設にとりに戻った。
戻りながら「もしこれがタクシーだったらメチャクチャ高級な保険証やねえ」と笑って話していたけど、被災地では笑えない苦しく大変な生活が始まっている。

2011年10月15日土曜日

厳しい季節

2011/10/15
東北に冬が近づいてきた。
僕たちが生活の拠点にしている場所にもストーブに火がはいるようになった。
ストーブに手をかざしながら想像する。
 (仮設にいるあのお母さんは暖まっているだろうか?)
 
 息子が軽い障がいをもっていて、お母さん自身も障がいがある。息子さんを送った時に出てきたお母さんと立ち話になり、途中から涙をポロポロ流しながら話をしてくれた。

 仮設が不便なところにあるのでそう簡単に買い物には行けない。壁が薄いので息子とヒソヒソはなし、まわりに迷惑がかからないようにしている。コタツを買うかストーブを買うか。ストーブは暖まるけど、どうせ灯油を買いに行けない。
不安や悩みが次から次へと吹き出してきた。

 たいした答えを持っていなかった僕は「また来ますよ」と言って2人と別れた。
 
 今日はどんなふうに暮らしているだろうか?しっかり食べているだろうか?寒くないだろうか?

 来週また訪ねる予定だ。

 

2011年10月11日火曜日

星空の下で広がる不安

2011/10/11
 気仙沼の活動拠点になっている岩手県一関市室根。最近僕は週の初めにそこへ行き2、3日滞在して気仙沼に行っている。
 教会が建っている場所のまわりが自然豊かで気持ちがよく、夜も静かで星がきれい。いうことない場所である。

 ただ、

 放射線量が高い。

 岩手県産の肉牛が出荷停止になったエリアの中にここも含まれるし、一関市が公開しているホームページの情報からもそのことがわかる。離れていても関係ないという事と、事故から7ヶ月という長い時間がったという事も関係がない。

 原発事故で星の数ほどの不安が世界中に広がっている。

たいせつなモン

2011/10/10
志津川子どもプログラムに毎回やってくるO君はいつもキックボードにのってくる。
「オラのたいせつなモンだ」
そう言ってボランティアが寝泊まりしているテントの横や仮設住宅の脇をスイスイと通り抜けていく。
 意外にスピードが出るので、僕は自転車を持っていない小学生のように走って追いかける。
彼の背中を見ながら、ふと、自分にとって「本当にたいせつなモン」は何だろうか?と考えた。

「・・・・・・」

すぐに「これだ!」と思うモノが出てこないということは、やっぱりモノを持ちすぎているということか。

「0君まってくれー」

2011年9月9日金曜日

再開

2011年8月28日(日)
 気仙沼の町をふらりと歩いてみた。車で移動することが多かったので歩いてみると新鮮だった。
 わかってはいたことだけど津波は容赦なく町全体に襲いかかっている。日曜日だというのに人は歩いていない。
静かな町の中を歩いていると「いちまる」という笹蒲屋さんがオープンしていた。
 「木曜日(3日前)にようやくオープンしました。機械も水に浸かったけど、掃除して動かしたら何とか動いたので、やれって事なんですねー」
 以前に比べたら作っている種類は少なくなったらしいけど、商品がショーケースの中に丁寧に並べられていた。

 「何かやんないと生きていけないし、待っている人がいるからやるしかないです!」
力強い言葉を聞いて『厚焼き笹蒲』を買った。
 誰もいない町を歩きながら笹蒲をほおばると、これを「待ち望んでいる人」は確かにいるだろうなと思った。

2011年9月7日水曜日

お泊まり保育の夜に

2011年8月20日(土)
 近くにある幼稚園のお泊まり保育を手伝いに行った。本来なら山で一泊するはずなのだが、震災の影響もあり園舎に泊まる事になったという。
 昼間はプールにいって、カレーを作って、夜はキャンプファイヤーと、子どもたちはどの時間も楽しく過ごしていた。
 興奮冷めぬ子どもたちがやっと寝静まって、先生達もそろそろ眠りに入ろうかという時「グラグラッ」と揺れがきた。
男の子が1人パッと起き上がって
「震度2だー!」
と言いながらあたりをキョロキョロ見回した。
僕が横に行って「大丈夫よー」と背中をさすって寝かすとそのまま眠ってくれた。

 今でも仙台は余震がある。昼間は気づかない時があるが、寝ている時に「ゆさゆさ」と体を揺らされると不気味でしかたがない。

 あの大きな揺れを経験し、余震がある中で生活している子どもたちの心の不安はどんなものだろうか?
 お泊まり保育の夜に少しだけ見えた気がする。

2011年9月2日金曜日

買い物バスツアー

2011年8月4日(木)
 
 名取市にある仮設住宅に住んでいる人たちへ毎週木曜日に行われている買い物バスツアー。プロジェクトから車を二台出して利用者は毎回14名程度。
 日頃おじいちゃんやおばあちゃんが歩いてはなかなか買い物に行くのが難しいので、毎週この日を楽しみにしてくれている。車は津波で襲われた自分たちの地域をまわったり、その近くの神社で手を合わせたりして、ショッピングモールに向かう。
 「買いたいものがいっぱいある」という人もいれば、
 「外に出るだけで楽しい」という人もいる。
沖縄の教会が貸してくれている車を利用しているので、
車のナンバーは「沖縄」だ。そのため僕はみんなから
『沖縄からきた運転手』と思われている。
 「沖縄も台風が来たら大変だっちゃ」
 「運転手さんのところが被害にあったらボランティアにいっから(いくから)」
 「んだっちゃ!(そうだそうだ)はってでもいっから!」
 「ギャハハハハ!!」 


買い物が終わって仮設住宅に帰るまで、沖縄からはるばるやってきた車の中に笑い声が絶え間なく響いている。

2011年8月31日水曜日

Iさんの家 8月

2011年8月3日(水)
仙台市から少し離れた岩切地区。
地震の被害が大きかったところで、
ここへ行くとたくさんの家の屋根にはまだまだブルーシートが かぶって、道もボコボコで工事も進んでいない。
 以前、ガレージにブルーシートをはって生活していたIさん宅を訪ねると、家が建っていた場所は更地になっていたが、
犬のカイト君が元気に迎えてくれた。
Iさんは留守だったけど電話をすると
自転車できてくれて、ガレージの中で
コーヒーをいただいた。
 「今はアパートで暮らしている」
 「家はやっと解体された」
 「カイトの散歩にここに来ている」
 「家が建つのは来年の夏ぐらいかな」
そんな情報を聞いて
「やっと落ち着きますね」と言おうと思ったけど、

アパート暮らし、
来年まで家は建たない。
これから行政にいろんな申請、
要求をしていかなければならない。

ガレージ前にかかっていたIさんの 思いが
「落ち着くのはまだまだ先だっぺ」
と語っていた。




 

2011年8月25日木曜日

げんまいがこっちをみている

7月30日(土)
東北へ行く準備をしていると、
げんまいがこっちを見ている


「ドコカヘ オデカケデスカ?」
「マサカ マタ キタノホウデスカ!」
「ナガイコト イナクナルンジャ ナイデショウネ!」
「アッシノ サンポ ハ ドウナルンデスカ!」


げんまいの心の訴に、何度も「すまん」と答えて僕は今東北にいる。
7月は九州に戻っていたが、8月から日本聖公会
「いっしょに歩こう!プロジェクト」の
スタッフとして活動をしている。
この間、ブログを更新できなかったけど、
これからまた日々の事を
書いていこうと思う。


ただ活動内容は基本的に「いっしょに歩こう!プロジェクト」のホームページに
載せていくので詳しくはそちらを見てもらいたい。
ホームページアドレス:http://nskk.org/walk/



2011年7月20日水曜日

津波の高さを示すブイを指さす支援室スタッフ
2011/6/23
石巻市大指地区のSさん宅を訪ねた。
が、ちょうど留守だったので大指漁港に降りてみることにした。
漁師のおじちゃん達が残っていた船の整備や漁港の後片付けを
しながら、「こんな時によそもんが入ってやがって」と迷惑そうな
視線をおくっていたが、おそるおそる話をすることが出来た。
その話によると、明日今年のわかめ収穫だ、という日に
津波でやられたという。地震の後、沖に出した船は助かったが
港に残っていた船はやられてしまった。
漁がいつ再開できるかはまだ未定らしい。
 津波があそこまで来たってことだね、と木に引っかかっている
ブイを指さして教えてくれた。

後方支援の後方支援

2011/6/23
仙台ではおいしい食事をいただいている。
特に木曜日は仙台キリスト教会の聖歌隊や、
聖書勉強のみんなと食事をしている。
その料理はというと、教会のベテラン女性シェフ達が
作ってくれている。木曜日以外の日でも数種類のおかずを作って、
タッパーに入れて持ってきてくれる。
そのすべてがおいしい!
ベテランシェフ達は言う
「私たちも何かしないと落ち着かないの、後方支援の後方支援ね!」


その後方支援によって私のおなかまわりは膨らみを増している。

2011年6月24日金曜日

物資

2011/6/21
東京から物資が送られてきたので、仙台キリスト教会の人たちと
仕分けの作業をした。
今、被災地で必要だと聞くものは、夏用の下着やタオルケットなど
とにかく夏に使うものだ。
あとは避難所からアパートや仮設に行く人が多いので、
日用品(鍋や時計、食器など)が必要になってきている。
家が流されて、避難所ではなく知り合いの家などに
避難している人たちには支援物資が届きにくい。
また義援金が出ていないので、できるだけ生活費を
おさえている人もいる。
なのでちょっとした日用品が必要になっているということだ。

2011年6月23日木曜日

すみちゃんの家

2011/6/20
宮城県東松島市にあるすみちゃんの家。
グループホーム、託老所を経営している。
もともと地域活動の拠点となっていたような所だったが
津波でこの二つの施設、そして自宅が水に浸かった。
7月9日には自宅を使ってで開所したい、という事で
急ピッチで片付けの作業が行われているので
手伝いに行った。
内容は水に浸かってしまった
皿の汚れを落とすという作業。
この地域にはまだまだ人は帰ってきていないが、
施設をなんとか再開して戻ってくる
きっかけになって欲しいという思いが詰まっている
すみちゃんの家 。
いろんなボランティアが集まっていた。

2011年6月21日火曜日

Sさん宅

2011/6/16
石巻市内から少し離れた地域に住むSさん、
自宅の被害は無いけれども、水はつい最近まで出ておらず、
もちろん最初は電気も来ていなかった。
自宅があるために支援物資はもらえず、
いわゆる「在宅被災者」だ。
そのため週一回物資をもっていっている。

震災前はワカメ・アワビ・コンブなどを
養殖していたが、津波で船や網などほとんどが
流されて再開のめどはたっていない。
Sさんは海をみながら
「津波が来る前あの岩の底が全部みえたなあ、いい漁場だったけど・・・」
とカモメが飛び交う岩を指さした。

宮城県東松島市

2011/6/16
仙台キリスト教会の信徒さんが住む東松島市へ訪ねた。
この地域(矢本地区)も大きな被害を受けて、信徒さんの
家のまわりは3軒ほどしか帰ってきていない。
山登りが好きな夫婦だったので話が盛り上がった。
孫2人も幼稚園から帰ってきたので持ってきたぬいぐるみ
を渡すと、子どもたちの緊張がとかれて帰るまで遊んでくれた。
家の前のもと田んぼだったところは片付いたとはいえ、
流れ着いたものがまだ散らばっていた。

東日本大震災3ヶ月記念聖餐式

2011/6/11
仙台キリスト教会で「東日本大震災3ヶ月記念聖餐式」がおこなわれた。
大震災によって犠牲になった方々、
今もなお困難な状況にいる方々、
特に東北教区信徒で犠牲になった方のために
祈りが捧げられた。



死者          15,401人
行方不明      8,146人
避難所に身をよせている人
                  92,000人 
(6月9日現在)

あの日から

2011/6/10
あの日から三ヶ月を迎える前の夜、
仙台市が見渡せる公園まで登ってきた。
町の明かりは復興のしるしなのか?
いや明かりは何のしるしにもならない。
明かりのふもとで聞く声といえば、
「親戚が津波でね・・・」
「友達がね・・・」
「同僚がね・・・」

海が近い町へ行けば
「何にもなくなったね。」
「どうすればいいんだろうね。」
「あの日からすべてが変わったね。」

明日であの日から三ヶ月をむかえる。
あの日を体験した人、
そして今もなお体験している人の苦しみや絶望を、
決して消化できるはずがないとはわかっていても
その声に耳を傾けている。

2011年6月17日金曜日

青森からやってきたスーパーハウス

2011/6/9
仙台市宮城野区岩切地区。
以前も書いたようにここは津波の被害ではなく、地震の被害がひどい地区。
屋根にはブルーシートがかかった家が目立ち、道路にもいたるところに
亀裂がはいっている。
加藤さんの家は全壊状態で建て替えが必要だが、
まだまだめどは立っていない。
おじいちゃんの体の調子があまり良くなく、
おばあちゃんは入院中で帰って来たら
全壊状態の中での生活はあまりにも危険なため、
スーパーハウスを青森から取り寄せて
設置をすることになった。
8畳の部屋にベットを二つ運び込んだ後、
風通りのいい部屋でお茶を飲みながら加藤さんの話をうかがった。
コミュニティー農場、レンゲ米、循環農業のことなど
幅広く取り組んでいる活動も支えていけたらいいと思う。
加藤ファームの詳細は
http://www.webmambow.net/kato_farm/
ぜひごらんください。
この日、加藤さんがお米を卸している団子屋さんが
たまたまお米を取りに来て、
ついでに団子を持ってきてくれた。
実は「なぜ枝豆を甘くするのか!」と
ずんだ餅に対して疑問をもっていたが
おいしかった。

2011年6月15日水曜日

2011/6/5
2日間だけという予定は簡単にくずれて、
8日間大工さんの手伝いをして、ボロボロになった教会は
「山小屋」の建物になった。(建物の中は)
当初予定になかった和室、外のお風呂場も山小屋というより
北欧風の建物に変えられた。
「2,3年経てば木の色が変化してもっといい色になるべ」
大工さん自身も自分の家を建てていて、今回の壁と同じ材を
使っているのでその良さがわかっている。
この山小屋風建物が拠点になって、被災地の支援に大きな
役割を果たす事を願っている。

室根山

2011/6/3
室根山(約900m)、聖ナタナエル教会から見える。
前には田園が広がっていて、とても気持ちが良いところ。
夜になると星がバラバラと落ちて来るぐらい見えていいところ。
室根山の頂上付近には高原が広がっていて牛たちが牧草をたべていた。
パラグライダーやハングライダーも頂上付近から飛び立って教会の上空を優雅に飛んでいる。

夜の気仙沼

2011/6/1

夕食の後大工さん達が「気仙沼までいってみっべ」
と車をだしてくれた。室根から約20分。
テレビでは気仙沼全体が被害を受けているような情報だったが、
駅周辺などは日常をとり戻しているようだった。
港の方へ車を走らせるとやはり人気はない。
誰もいない街の一角にスナックが営業していた。

車を降りるとあまりにも静かで少し寒気がした。
今日6月になったのに。
  

室根聖ナタナエル教会

2011/5/30

岩手県一関市室根町に聖公会の聖ナタナエル教会がある
津波の影響はないが地震の影響で会堂、
礼拝堂のあちこちの土壁がおちて
築50年の教会はさすがにボロボロだ。
この教会は気仙沼などに近い位置にあり、
ここをボランティアの拠点にして
活動場所にできればということで大工さんとやってきた。
見事な早さで落ちた土壁の上に新しい
壁が貼り付けられていく。
 多くの人がここで寝泊まりし、生活する日もそう遠くはなさそうだ。

美容師ボランティア

2011/5/30

髪を切ることで少しでも皆さんの支えになれば、
と大分から10日間の予定で仙台に来た美容師のSちゃん(後ろ)
仮設住宅に床屋さんがいたり、もうすでに理・美容師がボランティアに来ているところが多くてなかなかその機会がなかったが、電話をかけ続け来て欲しいといってくれたところがあった。
(高舘小学校避難所3名希望)ホワイトボードにはそう記されている。
髪を切る方も切られる方も明日を楽しみに待っているはずだ

宮城県多賀城市七ヶ浜町

2011/5/28
 宮城県多賀城市七ヶ浜町。
仙台の中心地から約20キロほどの海岸沿い。
車で走り、海辺が見えてくると「やっぱりここもか・・・」
と言葉を失う。
ここから北へ300キロ、南へ300キロ、海岸線という海岸線が
全部こんな被害を受けていると想像しようとしても、
目の前に流れ着いているモノに目をやると、
マスクの中で口がぽかんとあいている。

2011年6月13日月曜日

Iさんの家

2011/5/26

仙台市岩切地区は津波の被害は全くないが地域全体が活断層の真上にあるため、地震の被害が甚大だ。
Iさん夫婦家も中はぐちゃぐちゃで住むことはできないため、自宅庭のガレージにブルーシートをはって生活している、
 最初の2ヶ月間車の中で寝泊まりする。行政の支援はなし。
この日は梅雨前に屋根(ガレージのブルーシート)を補強するためメンバーででかけた。
岩切地区の多くの住民が家が激しく半壊、全壊して避難している状況。
り災証明書が出ている家と出てない家がある。

会津若松市物資搬入


2011/5/25
会津若松市が3000人の避難者のうち大熊町町民約5分の4、他南相馬市、浪江町を受け入れている。大熊町は役場ごと移転。
物資は足りない。特に日用品がいつも不足している状況(洗濯洗剤、台所洗剤、食器、夏の服などなど)
若松市社会福祉協議会が物資を集め支給している。
月木土オープン、月水金は仕分けをしている。(地元ボランティアの手によって)

2011年6月10日金曜日

ミスター釜石

2011/5/24(火)
東北二日目、岩手県釜石市訪問
釜石信愛幼児学園の園長先生、理事長から状況を聞く。
その後理事長に釜石を案内してもらう。
世界最大の防潮堤建設の提案者でもあり、釜石市のさまざまな分野に携わってきた。
「この防潮堤がもう少したかければ・・・」
釜石漁港に乗りあがった大型貨物船の前での言葉が重く響いた。